バイブル・エッセイ(756)一羽のスズメさえ


一羽のスズメさえ
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(マタイ10:26-31)
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(マタイ10)とイエスは言います。雀という言葉につい反応してしまいますが、社会の中で価値がないとみなされている小さなスズメでさえ、神様の手の中にある。まして人間はなおさらのこと。何も心配する必要はないということでしょう。
 渡辺和子さんがこんな話を紹介していました。これから大きな手術をするという患者さんの手に、「これを握っていればだいじょうぶ」と小さな小石を握らせるお坊さんの話です。その小石は「だいじょうぶの小石」というのですが、手術がうまくゆくからだいじょうぶということではありません。「手術がうまくいっても、いかなくても、すべては大いなるものの手の中にあるからだいじょうぶだ」ということを、思い出させるという意味で「だいじょうぶの小石」だというのです。
 「すべては神様の手の中にあるのだから、どちらに転んでもだいじょうぶ」という信頼を、どんなときでも忘れないようにしたいと思います。今日の聖書の文脈の中で言えば、どんな迫害が起こったとしても、心配する必要はないということです。「主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます」とエレミヤが言う通り、どんな迫害が起こったとしても、神様が一緒にいてくださるならば何も心配する必要がないのです。
 大切なのは、神様のそばにとどまり続けることでしょう。自分の心の中に少しでもやましいところがあれば、神様のそばにとどまり続けることはできません。人に勧めていることとは違うことを、陰に隠れてこっそりしているというようなことでは、「神様がそばにいてくださる」と確信することができないのです。正しさを主張する前に、自分が本当に神様の前に立つのにふさわしいか、確認する必要があると思います。心の中にやましいところがあれば、神様にしっかりお詫びして、神様のもとに立ち返ることです。神様のそばにいる限り、何も心配する必要はありません。
 「ああなったらどうしよう、こうなったら困る」と先のことばかり心配していては、肝心のいまが台無しになってしまいます。わたしたちには、いま果たすべき使命があるのです。たとえ不完全であったとしても、神様から与えられた使命を自分なりに精一杯に果たそうとしている限り、神様は必ずわたしたちを守ってくださいます。そのことを信じて、今日の使命に全力を尽くしましょう。