バイブル・エッセイ(211)愛おしさゆえに


愛おしさのゆえに
 天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、彼らは、「だれも雇ってくれないのです」と言った。主人は彼らに、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい「と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」(マタイ20:1-16)
 神学生のころ、夏休みや冬休みなど長期の休みになるたびに、静岡県静岡市にある「ラルシュ・かなの家」という施設に通っていました。「ラルシュ」というのは、ジャン・バニエというカナダ人が創立した、知的障害を負った仲間たちと家族のように一緒に暮らすことを目指す共同体のネットワークです。今日の福音を読んでいて、そこで体験した農作業のことを思い出しました。
 夏の炎天下で草むしりをしたり、キュウリやナス、オクラなどを収穫したり、田んぼの草むしりをしたりするのはなかなかの重労働です。わたしは汗を拭き拭き、やっとの思いで作業をしていましたが、体力のある仲間たちは黙々と作業を進めていきます。顔は精悍に日焼けし、まるで本物の農家の方たちのようです。一方で、重い障害を負った仲間たちの中には、なかなか作業を進められない人もいます。どんなにがんばっても、他の仲間の何分の一のスピードでしか仕事をこなすことができません。1日がんばっても、他の仲間の1時間分くらいの仕事しかできないのです。
 ですが、一日の仕事が終わってみんなで楽しい晩御飯の食卓に着くとき、あまり仕事をこなせなかった仲間を責める人は誰もいません。みんな、それぞれが精いっぱいに神様から与えられた仕事を果たしたと分かっているからです。8時間働いた人も1時間分しか働けなかった人も、お風呂で汗を流し、さっぱり着替えておいしい晩御飯を同じようにいただくのです。
 神様は、どれだけたくさんの仕事を果たしたかによって人に報いるのではなく、どれだけその人が愛おしいかによって報いて下さる方なのだと思います。神様は、たとえ1時間分の仕事しかできなくても、一生懸命に働く仲間のことが愛おしくて、愛おしくてしかたがないのです。だからこそ、働きの量に関係なく、豊かな恵みを注いでくださるのだと思います。仲間たちの姿を間近で見ていると、神様のそんな気持ちも少しわかる気がします。
 今日の福音が言いたいのも、そういうことなのではないでしょうか。神様の思いは人間の思いをはるかに越え、たくさんの仕事をできる人もそうでない人も、同じように深い慈しみを持って愛してくださる方なのです。「えっ、何でこんな人が」と私たちに思われるときでさえ、神様はその人を心の底から愛しておられるのです。そのことを心にしっかり刻みたいと思います。そのことさえ分かっていれば、他の人が自分よりも優遇されるのを見てひがむこともないでしょうし、自分自身が働けなくなった時に自暴自棄になってしまうこともないでしょう。すべての人の心を溢れるほどに満たし、それでも不足することのない神様の豊かな愛を信じ、その愛の中で共に歩んでゆきましょう。
※写真の解説…農作業に励む仲間たち。「ラルシュ・かなの家」にて。