祈りの小箱 の検索結果:

祈りの小箱(226)『悪魔との戦い』

『悪魔との戦い』 イエズス会の創立者、聖イグナチオは『霊操』という本の中で「二つの旗」という祈り方を紹介しています。バビロンの荒野に悪魔の軍団とイエス・キリストの軍団が対峙しているところを祈りの中で生々しく想像し、自分はどちらの側につくかを決めるという祈りです。『霊操』の中で、イグナチオは悪魔がどんな策略を使って人間を破滅させるかも克明に紹介しています。 悪魔とイエス・キリストが対峙する戦場、それは実は、バビロンではなくわたしたち自身の心の中にあるとわたしは思います。わたした…

祈りの小箱(225)世界の秘密

世界の秘密 この世界は、神によって創造された。何一つとして、神によって創造されなかったものはない。それこそが、この世界の秘密だと言っていいでしょう。草花も木も、鳥も動物も、そしてわたしたち人間も、神の愛の中から生まれてきたかけがえのない存在なのです。 どうしたらその秘密に気づくことができるでしょうか。たとえ世界の果てまで冒険したとしても、ただうわべだけを見て、驚いたり喜んだりしているだけでは見つからないと思います。世界の秘密を見つけたいなら、一つの被造物をじっと見つめることで…

祈りの小箱(224)『奇跡を起こす人』

『奇跡を起こす人』 奇跡とは一体何でしょう。自然の法則に反する思いがけない出来事、わたしたち人間の目から見たときに「こんなこと、絶対にありえない」と思うような出来事だと言っていいでしょう。それは、海が割れて道ができたり、水の上を歩いたりするようなことだけに限りません。「ありえない」と思うような出来事は、人間同士のあいだでも起こるからです。 例えば、道を歩いていて急に病気になり、苦しんでいたら、見ず知らずの人が親切に助けてくれた。病院まで、一緒について行ってくれた。そんなとき、…

祈りの小箱(223)『ありのままの輝き』

『ありのままの輝き』 たくさんの人の前で話さなければならないとき、歌や踊り、朗読などを披露しなければならなくなったときなど、わたしたちはつい「ちょっとでも自分をよく見せたい」と考えてしまいがちです。なぜでしょう。それは、ありのままの自分では、たいしたことができないと思い込んでいるからかもしれません。自分に自信がないから、「自分を実際よりもよく見せなければ」と思ってしまうのです。 でも、そのようにして力めば力むほど、実際の自分以上の自分を演じようとすればするほど、わたしたちの輝…

祈りの小箱(222)『真に偉大な人』

『真に偉大な人』 権力を手に入れたり、周りの人たちから誉められたり、大金を手に入れたりすると、なんだか自分が偉くなったような気分になります。何かを持っていることによって、自分の価値が上がったような錯覚が生まれてくるのです。その錯覚がさらに進むと、「自分は周りの連中よりも偉い。他の連中は何も分かっていない」というような大変な思い違いが生まれてきます。このような思い違いに陥った人は、次第に周りの人たちから疎まれるようになります。たくさんのものを手に入れたばかりに、人間にとって一番…

祈りの小箱(221)『心の傷口』

『心の傷口』 人から何かを言われて傷ついたときなど、わたしたちはその傷口をよく見ないまま、相手に憎しみを抱いたり、憎しみを自分自身で抱え込んだりしてしまいがちです。そして、傷をよく見ていないために、傷に不釣り合いな過剰反応をしてしまったり、傷を軽く見過ぎたりしてしまうのです。傷にふさわしい手当をしたいなら、まず傷口をよく見る必要があるでしょう。 傷口をよく見ると、相手がつけた傷はほんのかすり傷にすぎなかったことが分かることもあります。ひどく痛みを感じたのは、まだ完全にふさがっ…

祈りの小箱(220)『いまは変えられる』

『いまは変えられる』 「あの出来事が起こって以来、わたしの人生は不幸だ」と決めこみ、憐れな自分の人生を嘆いてばかりいる人と出会うことがあります。お気の毒なケースもありますが、まだまだ若くて力もあり、これから何でもできるように見える人が、「もうわたしの人生はだめだ」と決めつけてしまっているようなときには、とても残念に思います。その人は、跡形もなく消え去ってしまった過去、存在しない過去に、今を支配させてしまっているのです。 過去は確かに変えることができませんが、わたしたちは今を変…

祈りの小箱(219)『謙遜という土台』

『謙遜という土台』 大きな業績を上げてたくさんの人から褒め称えられる有名人が、一瞬にしてその人気を失ってしまうことがあります。賞賛されたことによって自分は偉いと思い込み、人を馬鹿にするような態度を取り始めたときです。たとえその人にどれだけ実力があったとしても、他のすべての点において問題がなかったとしても、傲慢であるというだけでその人の人間性全体に疑問が生じます。尊敬する人物の傲慢さを目の当たりにした人は、「あの人が、まさかこんな態度をとるとは」と思ってがっかりし、その人から離…

祈りの小箱(218)『愛ゆえの苦しみ』

『愛ゆえの苦しみ』 誰かを愛するということには、いつも大きなリスクがあります。相手のために自分を差し出したとしても、相手から受け入れてもらえない可能性があるのです。それは、恋愛ということだけでなく、誰かに親切にするとか、優しい声をかけるとか、愛に基づくすべての行いに当てはまることです。ですが、リスクがあるからと言って愛することをやめてしまえば、一生、愛の喜びを味わうことはできません。愛とは常に、相手に受け入れてもらえない危険性を覚悟の上で、相手に自分を差し出してゆく決断なので…

祈りの小箱(217)『本当の自由』

『本当の自由』 自由というと、つい「自分のやりたいことを、やりたいようにする」ことのように考えてしまいます。ですが、それは本当の自由でしょうか。際限のない欲望に駆り立てられ、「これを手に入れなければだめだ」というような強迫観念に駆られて欲望を満たし続ける人の姿は、かえって自由からほど遠いように思われます。そのような状態は、自由と呼ぶより、むしろ「欲望の奴隷」と言った方がいいでしょう。 人間にはさまざまな動物的な欲望がありますが、本当に自由な人とは、そのような欲望に引きずられる…

祈りの小箱(216)『自分の弱さを知っている人』

『自分の弱さを知っている人』 わたしにはあんな欠点もあるし、こんな弱いところもある。だから、「自分は弱い人間だ」と思ってあきらめてしまう人がいます。ですが、それはとてももったいないことだとわたしは思います。なぜなら、「自分は弱い人間だ」と知っている人こそ、実は本当に強い人だからです。 たとえば、自分が弱いということを知っている人は、いつも慎重に行動するので大きな失敗をすることがありません。思い上がって実力以上のことをし、大きな失敗をするのは、自分は強い人間だと思い込んでいる人…

祈りの小箱(215)『最後まで描き上げる』

『最後まで描き上げる』 何か仕事に就くのだけれども、途中で自分の思った通りにゆかなくなったり、大きな失敗をしたりするとすぐにやめてしまう。また次の仕事を見つけるのだけれども、そこでも同じことを繰り返す。結果として、いつまでたっても何も始まらないという人がときどきいます。同じ仕事を続けていたとしても、一つのプロジェクトを根気よく仕上げることができず、次々に新しいことに手を出そうとしてしまう。そんなことは、わたしたちに自身にもきっとあるでしょう。 仕事に途中で情熱を失ってしまう一…

祈りの小箱(214)『何よりの償い』

『何よりの償い』 「わたしは、あの人のために何もしてあげることができませんでした。申し訳なくて仕方がありません。」最愛の家族を亡くした方から、そんな言葉を聞くことがあります。家族のために十分なことがしてあげられなかったと、自分を責めておられるのです。そんな風に考える必要はまったくない、とわたしは思います。なぜなら、亡くなった方は、家族が自分のために苦しむことなどまったく望んでおられないからです。 亡くなった方は、天国から永遠の眼差しで地上のすべてを見渡しておられます。なぜ、そ…

祈りの小箱(213)『真の平和』

『真の平和』 大きなテロ事件が起こるたびに、テロリストとの戦いが声高に叫ばれ、テロリストを殲滅するための作戦が発動されます。ですが、テロ事件は減るどころか、ますます増えてゆくようにさえ見えます。いくらテロリストを倒しても、次から次に新しいテロリストが生まれてくるようなのです。なぜでしょう。 テロリズムの背景には、貧困と格差があると言われています。貧しさや差別の中で将来に希望を見出せず、自暴自棄になった人々が、最後の手段として自分たちを抑圧する社会構造そのものを破壊するテロリズ…

祈りの小箱(212)『幸せの条件』

『幸せの条件』 たくさんの人から愛された有名人が、お酒や薬物に溺れてしまう。そんな話をときどき聞きます。たくさんの人から愛されていて幸せなはずなのに、なぜそんなことをしてしまうのでしょう。それはきっと、ありのままの自分を受け入れてくれる人が誰もいなかったからだろうと思います。メディアによって作り上げられた自分の虚像を愛してくれる人がどんなにたくさんいたとしても、ありのままの自分、本当の自分を愛してくれる人がいなければ、人間は幸せになることができないのです。 ありのままの自分を…

祈りの小箱(211)『「できる」ことと「である」こと』

『「できる」ことと「である」こと』 教会の庭の片隅で、オキザリスが鮮やかな黄色い花を咲かせました。誰が植えたわけでもなく、まるで雑草のように繁殖している花です。小さくて目立たない花ですが、腰をかがめてじっと見つめると、まるで春の命を一身に宿したかのような美しさです。惜しみなく恵みを与えて下さる神様は、野の花の一つ一つに、それぞれ最高の美しさを与えたのだと思わざるをえません。 わたしたち人間も、それと同じだと思います。誰からも見られなくても、人から評価されることがなくても、自分…

祈りの小箱(210)『天国と地獄』

『天国と地獄』 「愛とゆるしを説くキリスト教にも、地獄があるのですか」と尋ねられることがあります。残念ながら、キリスト教にも地獄はあります。ですが、幸いなことに、神様は自分の罪を悔いて救いを願う人を地獄に落すことがありません。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17)とはっきり書いてある通り、イエス・キリストは、わたしたちを裁いて地獄に落すためではなく、救って天国に導くためにやって来られたのです。地獄に落ちる人…

祈りの小箱(209)『愛することによって』

『愛することによって』 一人ぼっちで寂しいとき、わたしたちはつい「誰もわたしを愛してくれない」と思って周りの人を責めてしまいがちです。ですが、そんな風に周りの人を責めて何になるでしょう。ますます孤立し、孤独が深まるばかりです。「誰もわたしを愛してくれない」という嘆きは、自分の周りに殻をつくり、人々との距離をさらに広げてしまうのです。 「誰もわたしを愛してくれない」と感じるときには、むしろ、自分自身に「でも、わたしは誰かを愛しているだろうか」と問いかけたらいいと思います。誰かか…

祈りの小箱(208)『低い所まで下りてゆく』

『低いところまで下りてゆく』 友だちが崖から落ちて骨折し、助けを求めて叫んでいる。そんなとき、わたしたちはどうしたらいいでしょう。もし本当に友だちを救いたいなら、ロープを使って自分も崖の下まで降り、友だちを背負って登ってくる以外にないでしょう。自分は上にいて、「大丈夫だー。登ってこい―」と叫ぶだけでは、何の役にも立たないのです。 それと同じことが、人生の大きな試練にあって傷つき、助けを求めて叫んでいる友だちとの関係でも当てはまります。傷ついて立ち上がれない友だちに、上から目線…

祈りの小箱(207)『共感する力』

『共感する力』 「苦しみにはどんな意味があるのか」という問いへの一つの答えは、苦しみを味わうことによって、それと同じような苦しみを味わっている人々の気持ちが想像できるようになるということだと思います。たとえば、健康なときには想像できなかった病気の人の苦しみが、自分自身が病気になることによって分かる。肉親を失った人の悲しみが、自分自身が肉親を失うことによって分かる。そのようなことが起こるのです。歳をとって様々な苦しみを味わうにつれて、ちょっとしたテレビや映画の感動的な場面でも涙…

祈りの小箱(206)『自分の本当の価値』

『自分の本当の価値』 「何かができる。何かを持っている。だから自分は優れている。」わたしたちは、ときどきそんな考え方をしてしまうことがあります。世間ではむしろ一般的な考え方なのかもしれませんが、このような考え方こそ人間を不幸にする原因だとキリスト教では考えます。このような考え方をする人は、何かができなければ、何かを持っていなければ、自分のことを受け入れることができないからです。「何かができるから、自分には価値がある」と思い込んでいる人は、心の奥深くで「何かができなければ、自分…

祈りの小箱(205)『ありのままを認める勇気』

『ありのままを認める勇気』 ミヒャエル・エンデのファンタジー小説『はてしない物語』の中に、故郷を守るために冒険の旅を続ける勇者が、関門を次々と乗り越えていくという話があります。通過しようとする者を殺してしまうスフィンクスの像が守る第一の関門を命からがら通過した主人公が第二の門にたどり着くと、そこに待っていたのは何と鏡でした。スフィンクスの門を通過した勇者さえ、その前に立つと悲鳴をあげて逃げ出すというその鏡の門。正体は、なんと前に立った人の本当の姿を映してしまう鏡でした。どんな…

祈りの小箱(204)『それにもかかわらずの愛』

『それにもかかわらずの愛』 「家族から愛されている実感がない」という相談を受けることがあります。確かに家族の側に問題があることも多いのですが、中には自分自身で愛を拒んでしまっているのではないかと思えるケースもあります。そのようなケースに共通するのが、「わたしがこんなにしてあげているのに、その分だけ愛してもらえない」という不平です。 聖書の中に、「放蕩息子のたとえ」というよく知られた話があります。裕福な父親と、2人の息子の話しです。親から受け取った財産を遊びのために使い果たし、…

祈りの小箱(203)『「ありがとう」と「ごめんなさい」』

『「ありがとう」と「ごめんなさい」』 祈りとは何か。いろいろな定義がありうると思いますが、祈りが神様との対話だということは間違いがないでしょう。聖書を通して、あるいは心の中から囁きかける神の声に耳を傾け、その声に応答する。わたしたちの問いかける声に、神が応答する。それが祈りの基本だと思います。 神様と対話すると言われても、初めはどうしていいか分からないかもしれません。初めての方には、まず神様に向かって「ありがとう」と「ごめんなさい」を言うことから始めることをお勧めしたいと思い…

祈りの小箱(202)『愛さずにいられない』

『愛さずにいられない』 被災地などでのボランティア活動に参加する人の中には、「よし、イエスの教えに従って困っている人たちを愛するぞ。愛さなければならないんだ」と考えてやって来る人がいます。ですがボランティア活動の厳しい現実に直面すると、そんな人に限って、「なぜ、こんな人たちを愛さなければならないんだろう」と悩み始めるものです。そもそも、「愛さなければならない」という考え方そのものに問題があるようです。イエスの愛の教えを頭だけで理解し、義務的に誰かを助けるのは、本当の愛ではない…

祈りの小箱(201)『自分と向かい合う時間』

『自分と向かい合う時間』 自分が何を持っているかを確認し、持っているもので何ができるかを考えるために、ときどき部屋を整理するのはとても大切なことだと思います。もしごちゃごちゃにしていれば、自分が何を持っているかが分からなくなり、持っているものをまた欲しくなって買ってしまうかもしれません。何を持っているかが分からなければ、持っているもので自分に何ができるかが分からず、できることまでできなくなってしまうかもしれません。そのような無駄をなくすために、部屋を整理する必要があるのです。…

祈りの小箱(200)『失うからこそ与えられる』

『失うからこそ与えられる』 「神様が与えて下さるものは何でも笑顔で受け取り、取り去られるものは何でも笑顔で差し出しなさい」と、マザー・テレサは口癖のように言っていました。わたしたちのことを隅から隅まで御存じの神様は、わたしたちにとって必要なものだけを与え、必要がないものは取り去られる。だから神様を信頼して、受け取りたくないものでも笑顔で受け取り、手放したくないものでも笑顔で手放しなさいと言うのです。 もし神様が取り去ろうとしておられるものを、ぎゅっと握りしめて手放さなかったら…

祈りの小箱(199)『愛は終わらない』

『愛は終わらない』 「好き」と「愛する」の違いはなんでしょう。それは、相手を大切に思う気持ちに条件があるかどうかだと思います。「好き」というのは、文字通り、相手が好ましいということです。相手が好ましい限りにおいて相手を大切にするのが「好き」ということなのです。それに対して、「愛する」には条件がありません。神様が出会わせてくれた人だから、その人がその人である限りいつまでも大切に思い続ける。それが、「愛する」ということです。 「好き」は、相手が条件を満たさなくなれば消えてしまいま…

祈りの小箱(198)『あなたは、あなただからすばらしい』

『あなたは、あなただからすばらしい』 子どもを誉めるとき、つい「〜ができるなんて、きみはすごいね」と言ってしまうことがあります。できるように努力したことをほめ、子どもにやる気を出させるための励ましの言葉ですが、あまり使いすぎるのは危険だと思います。「〜ができるなんて、きみはすごい」という言葉には、「〜ができなければ、きみはすごくない」、「〜ができない人はすごくない」、さらには、「〜がもっとよくできる人は、もっとすごい」というメッセージが暗に含まれているからです。子どもたちはそ…

祈りの小箱(197)『世界という舞台』

『世界という舞台』 「わたしなんかいても、いなくても同じだ。わたしの人生に意味なんかない。」世界の厳しい現実にもまれる中で、わたしたちはついそんな風に思ってしまうことがあります。そんなときには、この世界を一つの大きな舞台だと考えてみてはどうでしょう。この地球を神様が創った大きな舞台と考え、わたしたち一人ひとりをその舞台に登場する役者と考えるのです。 そもそもわたしたちが舞台に立ったのは、必ず役割があるからです。もし役割がなかったなら、神様はわたしたちを舞台に立たせなかったでし…